ディベートは面白い。やるときは大変だが、やり終えてからもずっと話をしたくなるくらい面白い。

こんなに面白いのだから皆やったらいいのにと思う。でも実際にやる人は少ない。やっぱり実際にやるのは大変だ。大変だからやる人が少ないと思っていた。

しかし考えてみるとそれは違う。

なんだって実際にやるのは大変だ。サッカーをやるのだってとても大変だ。でもとてもたくさんの人たちがサッカーをする。ピアノを弾くのは大変だ。でもとてもたくさんの人たちがピアノを弾く。数学をやるのは大変だ。でもとても多くの人が数学をやる。

数学やピアノやサッカーに比べたらディベートはそれほど大変と言えるのか。

それほどでもない。

そんなに難しくないし、それで飯を食おうってわけじゃないならピアノやサッカーや数学をやるくらいの感じでディベートをやったっていいのだ。

どうしてやるのか、というと、大変な以上に面白いからだ。面白いだけじゃなく頭の体操にもなる。何をやったって頭の体操にはなるが、ディベートに特異なのは、必ず自分自身の反論相手を自分でやることだ。

とてもよく勉強していて頭のいい人たちでも、自分の見解を正しいと信じていて、その正反対のことを調べたり考えたりすることは滅多にない。法廷戦術を考える弁護士とか、厳しい交渉に臨む実業家とか、投資家に投資してもらうためのピッチを練る起業家とか、現実世界にはディベートに近いプロセスをくぐる人もいるが、世間のほとんどの人たちはボーッと生きていて、自分の見解が正しいとなんとなく信じているか、あるいはそもそも自分の見解が何であるかをはっきりわかっていない。

自分が何を主張するか、その主張に対する最も強い反論や対向提案は何か、そしてその主張の是非を判定するにはどういう客観的基準があるのか、そういうことをディベートでは徹底的に考える。抽象的に考えても埒が開かないから具体的に考えて具体的に調べ、具体的に主張し、具体的に議論する。

そのプロセスで必ず論題の両側を調べ、両側を考える。

このプロセスを知らない人たちは、どんなに調べて考えてもなかなか反対側の見解や証拠を理解することができない。

例えばトランプ大統領が選挙に勝ったと思っている人は、いや、負けたんだと言われても納得せず、どんなデータが出てきてもトランプ大統領が勝ったんだと思い込んでいる。逆も全く同じで、バイデン候補が勝ったと思っている人は、バイデン候補側に不正があったというデータを見せられても真摯に検討したりすることすらせず、そんなはずはないと言って退けて終わる。だから両側の人たちの見解はどこまでも平行線をたどり、すれ違いつづけ、なんら建設的な対話にならない。

認知の研究で知られている確証バイアスだ。

人間は確証バイアスを逃れられない。誰でも自分の偏見や先入観にしがみつこうとする。どれほどの強さで執着するかの個人差はあっても、執着がゼロの人はいない。関心がゼロなら執着もゼロかもしれないが、自分が一度こうだと思い定めたものはなかなか覆らない。正反対の証拠を見せられても覆ることがない。

もちろんディベートをやっても人間の思考習慣は同じだが、ゲームの構造上から必ず自分の死角や盲点、偏見や先入観を照らさざるを得ない。実際に試合をして勝ったり負けたりするプロセスで自分の間違いに気づき、理解を刷新する。

だから思う。やっぱり皆これをやったらいいのに。

サッカーやピアノや数学をやる程度の熱心さでディベートをやったらいい。嗜む程度で構わない。大会で優勝しなくてもいい。参加することに意義がある。しかし負けたら悔しいから勝つまでやってほしい。勝つことは目的ではない。サッカーや野球をプレイする目的は勝つことではない。スポートを楽しむことだ。同じように、勝っても負けてもいいからディベートして楽しんでほしい。楽しみながら自分の愚かさや無知を悟り、他者の知恵や賢さに学び、新しい理解を創り出し、新しい世界を創り出してしてほしい。

ディベートは誰にでもできるのだ。