自分は特に健康について不安を抱えていないが、かと言って健康に自信を持ったこともない。子供の頃や若い頃は、病気がちではなかったが、特別丈夫な方でもなく、年に1回か2回は風邪をひいたりして、「体というのは思うようにならないものだ」と思っていた。
4年前に死んだ母親は、いま思えば健康マニアみたいな人で、あれこれ情報を集めては家族の健康を気遣っていた。そんな母が帯状疱疹をこじらせた挙句にALSなどという意味不明な病気で亡くなったのはなんとも言えない皮肉で気の毒なことだった。
基本的には「好きなものを食べ、好きなものを飲み、好きなことをして、与えられた命を生きればいい」と思っている。しかし人生の中で色々とやりたいことがないわけじゃないから、わざわざ命を縮めるようなことはなるべくやらない方がいいと思ってもいる。
サッカーをやってると言ったら日大でアメフトをやっていた友人が「そんな危険なものを」と言った。サッカーの何がそんなに危険なのか聞きそびれた。合気道も、危険といえば危険だ。滅多にないことだが、よその道場で首を折って死んだ門下生がいたと聞く。しかし武術稽古によってむしろ危険から身を守る術を学び、プラスマイナスで言えば安全だと思っている。
85歳の実父は、先日派手にすっ転んで眉毛のところから派手に出血し、タンコブを作ってひどい顔をしていたが、先週の木曜日に会ったらすっかり治っていた。父親が大怪我をしなかったのは剣道5段だか6段の有段者で、ごく最近まで剣道の稽古を続けていたことと無関係ではないと思う。連れ合いをなくしてから数ヶ月は消沈していたことを思い出すのが難しいくらい今は朗らかに暮らしている。
病気や怪我は、健康に向けての一里塚である。
今は二十歳の娘が5歳くらいの時に高熱を出し、その熱が下がる過程で持病が治り、手術が必要だと医者に執拗に言われていた手術をせずに健康になったという印象的な話は15年前にブログに書いた。その話はその後「組織の当たり前を変える」(2006年)という組織開発の本にそのまま収録された。
怪我や病気を甘く見てはいけない。それはピンチであるとともに潜在的なチャンスなのだ。
怪我や病気を無視するのは間違いだ。軽視してもいけない。しかし過剰な重要性を与えてもいけない。怪我や病気は生きていくプロセスにおけるフェーズなのだ。フェーズ的な現象であれば、それを契機に次に来るフェーズを同時に思うことが大切だ。
怪我や病気にならないのに越したことはない。予防し、回避するのがいい。しかしなってしまったら客人として歓迎し、もてなして帰ってもらったらいい。
願わくば、やがて訪れる死に対しても同じ態度でいたいと思っている。