私がアイン・ランドの哲学、オブジェクティビズム(Objectivism)を発見したのは今から30年前のことです。その頃すでにアイン・ランドが他界して10年の月日が経っていました。

当時20代だった私は、

「人間は(自分は)どう生きるべきなのか」
「私たちの(日本の)社会はどうあるべきなのか」
「ビジネスで(自分が)金を稼ぐことはいいことなのか」
「政治によって世の中を変えることはできるのだろうか」
「生き方や社会を客観的に論じ合うことができるのだろうか」

などの根本的な疑問を抱えながら、忙しい毎日の仕事に明け暮れていました。

アイン・ランドの哲学は、こうした疑問に明快な回答を出すばかりでなく、そもそもの哲学的な問いの立て方を教えてくれたのです。

アイン・ランドの哲学はラディカルです。私はアイン・ランドを読む前に古今東西のさまざまな思想に触れていましたが、オブジェクティビズムのような包括的・網羅的・総合的な哲学には出会ったことがありません。ここまで徹底して矛盾のない個人主義・資本主義の思想にも出会ったことがありません。

アイン・ランドの哲学は現実的です。現実的と言っても、今の世の中と折り合いをつけて妥協した人生を送ることとは正反対です。人間が生きるというのはどういうことなのか、その根源までさかのぼり、あらゆる事実に基づいて論理的に展開され、体系化された哲学です。その結果、今の社会の間違いや邪悪さを容赦なく糾弾し、新しい社会や新しい生き方をこれ以上ないほど整然と提案しています。

アイン・ランドは、セルフィッシュ、つまり自分自身のために生きることの「美徳」を説いています。「自分のために生きてもいい」という意味ではありません。「自分のために生きることこそが唯一倫理的に優れた生き方だ」と言っているのです。これは単なる彼女の個人的な趣味嗜好や独善的な意見ではありません。現実世界の観察に基づき、透徹したロジックによって有無を言わさぬ立論がなされています。

日本でも、アメリカでも、ロシアでも、中国でも、世界のどこでも、この考え方は異端です。また、どの時代にあっても、人は自分のために生きるのではなく、誰かのために生きるべきだ、というのが社会の主流の考え方です。人は家族のために、仲間や友人のために、社会全体のために、神のために、未来の子孫のために生きるべきだというのが世間の常識です。

アイン・ランドは、この世界の常識を真っ向から否定し、人間は事実として利己的であるばかりでなく、利己的でなければ優れた文明も豊かな人生もありえないのだと論証します。

これは日本においてのみならず、世界中の知識人のほとんどにとって受け入れがたい結論であることに間違いありません。

そして最も重要なことに、アイン・ランドの哲学は極めて実践的であり、驚くほど実用的です。アカデミックな教室の中での空理空論ではないのです。現実に人が生きる上で必要な具体的ガイドラインを提示しています。アイン・ランドの哲学を自分の人生に取り入れた世界中のたくさんの人々がそれを実証しています。曇りのない目で現実を見据え、揺るぎなく生きることが可能になるのです。

アイン・ランドの哲学は、言うまでもなく、宗教ではありません。信じる対象ではなく、考えるための方法です。読者の皆さんは、本書を読み、その内容を理解し、「本当にそうなのだろうか」と疑問を持ち、現実を新たな目で見つめ直すことになるでしょう。そして、私のように、「いろいろ疑ってみたが、アイン・ランドの結論は真実だった」という結論に至るかもしれません。

(ちなみにアイン・ランドの宗教嫌いは有名です。宗教は「これを信じよ」とドグマを明示してきます。アイン・ランドに言わせれば、宗教は未熟な哲学です。ある段階で現実を見ることをやめ、教義に頼って世界を理解することにした人たちが宗教を信仰することになるというのです。)

私自身は20代にアイン・ランド哲学に出会い、本書の詳述する倫理学を中心に、その基礎となる形而上学・認識論、発展形である政治学・美学を学び、その過激さ・現実性・実用性にすっかり魅了されてきました。もともと考えることが三度の飯より好きだった私は、何年も何十年もかけてオブジェクティビズムについて考え、実験し、ささやかな反証を試みてきました。30年経った今、私はまだ反証に成功していません。それどころか、アイン・ランドの説く美徳はすっかり私自身の血肉となり、もはやアイン・ランドを知らなかった自分には戻ることができません。

自分の頭で一から物事を考え、現実に立脚して人生を切り開く独立人にとって、オブジェクティビズムという哲学は大いなる知的冒険です。