瞑想にはいくつもの段階があって、それぞれの段階が自分にとってはとても貴重である。その異なる段階について書いてみよう。

ひとつめはトレーニングという段階だ。

10代で瞑想を習い始めた頃は、瞑想しようとすると眠くなったり雑念が湧いたりした。先生が教えてくれていることをやろうとしているが自分ではやれていないという感覚が強かった。それで呼吸とか姿勢とかマントラとかいろいろな手段を教わって少しでも瞑想らしいことをしようとした。その当時は瞑想の目的などを考えることもあまりなかった。ヨガの訓練の一環としてやっていただけだ。瞑想はトレーニングではないし、トレーニングは瞑想ではない。しかしトレーニングとしての瞑想は、実はそんなに悪くない。一所懸命やってるだけで体が変わり、心が変わる。そのうち、少しずつ、瞑想らしいことになっていく。

すると次にメンテナンスという段階に進む。

日常で混乱した頭や心を落ち着かせて秩序や平穏を取り戻す。つまりメンテナンスとしての瞑想は、マッサージやセラピーのようなものだ。放っておくとどんどん荒廃していきかねない精神を、瞑想というメンテナンスで癒したり正したりして正気を保つ。これもとても馬鹿にできない効用だ。20代や30代の頃、仕事に埋没していた頃、瞑想は正気を保つためにとても役に立った。

しかしメンテナンスは瞑想の目的ではない。

瞑想の目指すのは精神の発達である。完全なる自由、あらゆるものからの解放である。もちろんそんなものは手軽に手に入るものではない。解脱を目指している人たちの中には解脱だの悟りだのという観念に囚われて魔境に陥る人もいる。しばらく前のことだったか、真面目な修行僧が「解脱間近、秒読み段階」と宣言した直後にそれが錯誤だったことを悟って落ち込むという報告があった。

しかしトレーニングを経て、メンテナンスを超えた先には、瞑想が「やること」ではなく「いること」になっていく段階がある。

常態としての瞑想、とでもいうのだろうか。

トレーニングとして瞑想をしている段階では「よし、今から2時間瞑想しよう」などと言って瞑想し始めるのが常だ。メンテナンスとしての瞑想も同じで、朝起きたら瞑想、夜仕事を終えたら瞑想、休日に瞑想、平日に瞑想、とルーチン化して心の平安を維持しようとする。常態としての瞑想では、瞑想が日常化する。読書も、仕事も、瞑想時間になりうる。

ここで瞑想の種類について理解しておく必要がある。

例えば車の運転をしているときにやってはいけない瞑想がある。しかし瞑想が血肉化していくと運転中も瞑想している。心が落ち着いて頭が冴えていて五感が敏感に働いている、本物のマインドフルな状態。これは修行僧の悟りまで行かなくても普通に瞑想を継続していると普通に到達する状態だ。「解脱したぞ」「もうすぐ解脱するぞ」と大騒ぎするような状態ではなく、日常の落ち着きの状態だ。

そしてここでトレーニングとメンテナンスの真の価値が発揮されることになる。日常の喧騒の中で、自覚的にマインドフルネスのギアを入れて、通常の意識の通常の言動の中で瞑想的に思考し、瞑想的に行動することができるようになる。

瞑想とは「やること」(doing)ではない、「いること」(being)だ、というのはよく説かれる真実なのかもしれないが、「やること」としてトレーニングした結果として、自分の状態を自分である程度制御できるようになり、もはやわざわざ瞑想しようなどと思わずともいるべき状態にいられるようになる。

ケン・ウィルバーという天才的人物がstate(状態)とstage(段階)を区別しろと教えている。この区別は役に立つ。つまり、誰でもトレーニングとしての瞑想を続けていけばstate(状態)としての心の落ち着きや精神の安定は確実に得られる。これはstage(段階)とは違って、刹那的な現象だ。鍛錬の結果として瞬間的に何かができるようになってもそれでは足りない。

それが本当に心身に定着するとstage(段階)が変わることになる。段階が変わると、これまで体験してきたことが無駄になったり無意味になったりするのではなく、意味が変わり有意義になっていく。トレーニングやメンテナンスが無意味なのではなく、その位置付けや効用が変わってしまうのだ。

瞑想ほど日常的でかつ同時に宇宙的な営為はなかなか他にない。その方法や本質を教えてくれる多くの師には足を向けて寝られない。それでときどき教わったことを自分の中で反芻してこうしてまとめてみたりしている。