ディベート道場に来た人が「ディベートをやって頭がよくなった」と言うのを聞くと、きっとそういうこともあるだろうと思う。「頭がいい」というのが「頭がうまく使える」という意味なら間違いない。

同じ頭でも上手に使うことができるようになる。あれこれ屁理屈をこねくり回す代わりに、「それは本当か」「本当ならどうなのか」「なぜなのか」「どうすべきなのか」といった意思決定的な問いを追求する頭の使い方に熟達することになる。

トレーニングジムに行ってトレーニングを重ねれば強い体ができる。骨や筋肉や神経や感覚をどう使ったらいい運動ができるかを学ぶからだ。

ディベート道場で学ぶことは、耳や手や頭や口をどう使ったら合理的な議論ができるかを学ぶことだ。稽古を重ねれば強い頭ができる。

まず耳を鍛えなくてはならない。他人の言うことをクリティカルに聴く訓練が必要だ。クリティカルに聴くというのは批判しながら聴くことではない。正反対だ。相手が何を言っているのか、どんな論拠でそれを言っているのか、どんな証拠があるのか、客観的に構造的に聴く必要がある。批判する前にクールに聴く力が必要だ。

そして手の使い方をおぼえる必要がある。聴き取れたことを書き取るのだ。相手が何を言っているのかを再現できるくらい紙の上に記録するのだ。再現できれば批判もできる。賛成もできるし、反対もできるし、黙殺する選択もできる。

耳と手を訓練しているうちに頭はすでに鍛えられている。ふだんディベート的な耳や手を使っていない人は、この時点で相当な疲労をおぼえる。ふだんトレーニングしていない人がトレーニングすると筋肉痛になるのと一緒だ。慣れてくれば何も考えずに相手の話をクリティカルに聞き取り、構造的に書き取ることができるようになる。

そしてようやく口の訓練である。もちろん耳と手と口は同時に使うのだが、最初に口ばかり達者になってしまうと厄介だ。ひとの話を聞きもせずに口先で論破しても何の意味もない。いや、くだらない議論を退ける意味はあるだろうが、そもそも相手の議論がくだらないのか一考に値するのかは聞いて理解せねばわからない。

ここが世間でディベートを批判する人たちが最も頻繁に誤解しているポイントである。口先で議論する前に、耳と手と頭を使わなければ本来ディベートはできない。

もっとも、古来からディベートをする人たちには二種類いて、口が先に立つ人たちもいる。ソフィストの伝統を受け継ぐ人たちだ。彼らは最初から白を黒と言いくるめようとするアジェンダを持っていて、言葉巧みに論敵を論難する。

それに対して教育ディベートに携わる人たちはソクラテスの伝統を引き継いでいると言っていい。問いかけ、問いただし、真実を求め、己の無知を知ろうとする。

ディベート競技は試合だから口の上手いソフィストたちが勝利することもある。しかし世界を知りたい、何かを創り出したい、仲間と語り合いたい、わかり合いたいと思う人は、議論に勝つことそのものよりも、議論のプロセスから学ぶことのほうが優先する。

ディベート道場で耳と手と頭のトレーニングを重視しているのにはそういう背景があるのだ。深く考え、広く考え、はっきり考え、速く考える稽古、頭と耳と手と口との新しい使い方を学ぶ稽古である。