人生が旅ならば、旅の時間は有限だ。
我々はどこに行くのか。
我々は何をやりたいのか。
三連休の最後にチームミーティングをして、実務的な打ち合わせを終えて、食事しながらあれこれ四方山話をしながら、将来のことを少しだけ考えた。
今やっている仕事は今やりたい仕事ばかりだ。やりたい仕事を選び、やりたい仕事だけをやっている。ずっとそれをやろうとしてきた。やれてみれば簡単だが、やれないうちは大変だった。
世間の多くのホワイトカラーの人たちがいわゆるブルシットジョブに従事している。ブルシットジョブとは、無意味なくせにやらざるを得ない、やらされ仕事のことだ。
個人的にも社会的にも文化的にも芸術的にも無意味なのに、なぜかそれをやらされている。ドラマ半沢直樹にでてくる組織政治の駆け引きの大半はブルシットジョブだ。
2008年のアルゼンチン映画El empleoに出てくる高給取りの主人公の仕事は、自分の上の役職の人間に踏みつけにされることだ。
こんなブルシットジョブには何の価値もない。しかし男は踏みつけにされることで高給を食んでいる。世の中からこういうブルシットジョブが減れば減るほど、意味のある創造仕事が増える。
1997年にブルシットジョブに就いていたときに昼休みにうどん屋に一人で入って、慣れないアルバイトの女性が客の注文をとる様子を見て「自分はこの人よりも役に立っていない」と思って暗澹たる気持ちに陥ったことを思い出す。
ブルシットジョブから、個人は自分の選択で離れることができる。そして意味のある仕事を創り出すこともできる。
社会がブルシットジョブを減らし、意義ある仕事を増やすにはどうしたらいいのか。
自分がブルシットジョブを離れてスタートアップ事業に失敗し、戦略コンサルティングの仕事に就き、コーチングやトレーニングやファシリテーションを頼まれ、独立してずっと組織開発やリーダーシップ開発や社会人教育の仕事に携わっているのは、畢竟それが目的だ。
それは可能だ。一気に実現することはできないが、時間をかけて実現することはできる。
それは究極の働き方改革だ。しかし働き方改革という呼び方では足りない。生き方を変えることだ。と言っても山にこもって修行をする必要はないし、新しい宗教や哲学を信奉する必要もない。ただ現実を見て、自分の心の内を見て、自分の創り出したい仕事や生活を創り出すだけだ。
時間をかけて創り出すだけだ。
そして創り出すときに大切なのは、創り出すプロセスの中に「自分は何者か」という自意識をはさまないことだ。
煎じ詰めればこれで全部だ。いろんな、他のことは要らない。
人生の時間も資源も有限だ。自分は何をやりたいか。仕事でもレジャーでもやりたいことは数限りなくある。
しかし一番やりたいことは、少しだけ読書をして、瞑想して、仕事して、人と対話して、大自然を愛でながら、世界の真理に触れること。それで十分だ。そのプロセスで少しでもブルシットジョブを減らし、意義ある愉快な仕事が増えたらそれでいい。
コロナ危機のおかげでそういうシンプルなことがこれまで以上にはっきりしてきた。
ブルシットジョブを生み出す構造を変えよう。そして意義ある愉快な仕事を生み出す構造を創り出そう。