19年前に独立して教育の仕事を始めた。
教育などという大それた仕事を始めるつもりはなく、コンサルティングやコーチングをビジネスとして始めたら、付随してビジネストレーニングの仕事の依頼が舞い込んできて、気がついたらそれは企業人教育(社会人教育)という仕事だったというだけ。
しかしトレーニングの仕事をし始めると気になることがあった。せっかく一生懸命何かを教えても、教わった人たちが教わったことを習得して活用しているかどうかわからない。
それで講座やセミナーやワークショップが終わったときに参加者にカードを渡して、そのカードに自分の学んだことやこれからの目標を書いてもらい、緊張構造のミニチャートにしてアクションも書いてもらい、学んだことを身につけてもらおうとした。
だが、すぐにやめた。余計なお世話だからだ。
学んだことをどう使おうが、それは学んだ人の自由だ。使いたければ勝手に使えばいい。使いたくなければ使わなくていい。
教えた人間の責任は教えた時点で終了する。
本屋が本を売って、買った人がその本を読むかどうかは買った人の自由だ。
八百屋が野菜を売って、買った人がその野菜を食うかどうかは買った人の自由だ。
買った人に対して
「あなたはせっかく素晴らしい本を買ったのだからちゃんと読みなさい」
「あなたはせっかく素晴らしい野菜を買ったのだからちゃんと食べなさい」
などと言うのはお節介も甚だしい。
そのお節介を自分は焼いていたわけだ。
今でも少し余計な世話を焼くことがある。
せっかくロバート・フリッツから凄いことを学んだのだから、どうしてそれをすぐに仕事や人生に活かさないのか。どうしてビジネスやキャリアに活用しないのか。どうしてファイルにとじて書棚にしまっておくのか。宝の持ち腐れだ。
しかし学んだ人が何を学ぼうと、それを生かすも殺すも学んだ人の自由だ。
相手の力になろう、という思いが強すぎて余計なお節介を焼き始めたら、このことを思い出すようにしている。
「買ったものをどうするかは買った人の自由だ」ということを。