自分の知らないことや知り得ないことを想像することが大切だ、と昔から多くの立派な人たちが言う。物事は目に見えない部分が大切で、目に見えない部分を想像して知ろうとすることが大事だ、と古今の賢人たちが教えてくれる。

きっとその通りなのだろう、と思う。

そしてたくさんのことを知る必要がある、知識は力だ、知識は宝だ、知識が人を賢くする、知識がないから物が見えないのだ、と昔から多くの先達が言う。書を読み、旅をして、いろいろな人生経験から知識を貪欲に獲得し、世の中のことを知らなくてはならない、と教師や学校や上司や会社が言ってくる。

たしかに知識は必要だ。

人間は成長しなくてはならない、発達しなくてはならない、昨日よりも今日、今日よりも明日は賢くならなければいけない、と色々な学者や指導者が言う。昔は専門家の学問だった発達心理学のようなものがポピュラー化されて一部のコミュニティで流行している。

全部ナンセンスだ。

想像が大切なのは確かだが、現実を観察もせずに独りよがりな想像をする人たちは、ただ単に妄想に陥っているに過ぎない。妄想が多い分だけ現実を見失う。現実を見失っているのにもかかわらず、自分の妄想を信じ込んでいるのでそれに気がつかない。

たくさんの知識も重荷になる。生きるために知識は必要だが、貴重な知識だと思い込んでいる事柄のほとんどは過去の遺物だ。これもまた現実を見る目を曇らせる。

人は成長する。やるべきことをやっていれば成長する。成長しよう、発達しよう、もっと立派になろう、人格を磨こう、などという下心で努力しても逆効果だ。

学問の研鑽や霊的な修行を経て自分の位が高くなった(美しい色に昇格した)と錯覚した人たちが、下の位の人たち(醜い色の人たち)を見下すという現象が世界中で起こっている。これは特段新しい現象ではない。伝統宗教の中にも悟りの階梯なるものがあって、上の位の人たちが下の位の人たちを意識・無意識で見下すことは古今東西枚挙にいとまがない。

霊的成長などを意図的に志すのは時間の無駄であるだけでなく、かえって悪い結果になりかねない。天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず。皆が自由平等に学問をして楽しんだらいい。

歳を経て成熟するのは、知識ではなく、想像でもなく、ましてや魂のカラーなどではない。脳波の波形でもなく、坐禅の坐位の見事さでもない。いかに現実を見るかだ。それに尽きる。

「現実は大人の味だ」とロバート・フリッツが言う。それはどういう意味か。子供には苦い味や渋い味の良さがわからない。甘い味が好きで酸っぱい味が嫌いだったりする。歳を重ねるに従って渋みや苦みやえぐみを味わえるようになる。同じように、幼い頃や若い頃には味わえなかった現実の多様な面が、歳月と経験を経て味わえるようになり、楽しめるようになるというのである。

77歳になるロバートは、自身の創造性が鈍るどころか今までで最も鋭敏だと言う。肉体の衰えは感じても精神は冴え渡っている。それはなぜかといえば、「いかに現実を見るか」の実践を積み重ねてきたからだという。

たいていの人たちは知識を蓄積して、自分の蓄えた知識に照らして新しい経験を分類し、「わかったつもり」になっている。

クリエイターは違う。常に新しい現実を観察している。観察に退屈することはない。現実は常に変化している。そして変化する現実を知るためには「いかに現実を見るか」の規律が必要だ。現実を客観視しなければ創造などおぼつかない。そして新鮮な目で現実を見ること自体が大人の味であり、人間の成熟なのである。