子供の頃、自分は何も悪いことをしていない(と思っている)のに先生に怒られる、ということがときどきあった。

(先生との相性が大きいと思う。荒木先生や久保田先生とはそういうことがなかったが、山本先生や渡邊先生との間ではよくあった。)

自分は何も恥ずかしいことをしていない、間違ってもいない、正しいことしかしていない、と思っているから、怒られてもただ反発するだけで何も反省しなかった。相手が悪いと思っていた。

しかし母親がそういうことを知ると決まって言うのだった。

カデンニクツヲイレズ 

リカニカンムリヲタダサズ

耳で聞いても何のことやらわからないが、「瓜田に履を納れず 李下に冠を正さず」と書くらしく、瓜畑の中で靴を履き直したり李の木の下で冠を被り直したりすれば瓜や李を盗んでいるのではないかと疑われるから、ひとに疑われるようなことをするな、という意味だと言う。

何度聞かされたことかわからない。母親以外の人から聞いた記憶もない。母親の声で覚えている。

シモシタニオヨバズ

もそうだ。これは「駟も舌に及ばず」と書き、いったん口に出した言葉は、四頭立ての馬車で追いかけても追いつかない、喋る前に言葉を選べ、という意味らしい。

古代支那の諺は耳で覚えたが、その教訓はちっとも身につかなかった。

自分が間違ったことをしていないのなら、ひとがどう思おうと関係ない、それは誤解した人間の問題で、自分の問題じゃない、という傲岸な態度は、ちっとも変わらなかった。

もちろん大人になって、社会に出て、いろいろと痛い目に遭うことによって、少しは言葉や行動に注意して誤解を受けないようにする処世術を身につけたが、それはあくまでも生きていくためのサバイバルスキルであって、根本的に性格が変わることはなかった。

母親は6年前にALSで衰弱して死んだ。今月は七回忌だ。

自分が子供の頃から成長していないとしたら、死んだ母親の教育は失敗に終わったのだろうか。

それとも死んだ母親の言葉を今でもこうして覚えているのは、まだそれが続いているということなのだろうか。

先週通訳したプロセスワークのセミナーで「生きているのと死んでいるのとはエッセンスレベルでは変わりがない。なぜなら誰かが死んでもその人を感じることができるから」(簡単なサマリー)というアーノルド・ミンデル博士の教えがあった。

これだけ聞いたら納得いかない人が多いだろう。

宮本輝の小説「錦繍」の中に「生きていることと死んでいることとは、もしかしたら同じことかもしれへん」という印象的な言葉があった。

現実に昭子さんは6年前に他界して、この世にはいない。それが現実、コンセンサスリアリティだ。

しかし彼女の言葉は生きていて、今さっき聞いたかのように耳の中でこだまする。

シモシタニオヨバズ

カデンニクツヲイレズ 

リカニカンムリヲタダサズ

しかもこれらの言葉は大昔の誰かが当時の支那の言葉で書き残した言葉だ。

言葉は生きている。

子供の頃から成長していない自分は、いまだにこの世で何かを学ぼうとしている。子供の頃に学べず、大人になっても学べず、もう性格など死ぬまで変わらないかもしれないが、なぜかこうして大昔の言葉を思い出しては反芻している。

生きていることと死んでいることとは同じことかもしれない・・・夢の次元、エッセンスの次元では。