今年3月9日に奥沢で私の誕生会を開いたときは本当に元気でした。私が自分で自分の誕生会を開くなんてことは生まれて初めてやることでしたが、父・弟・妻・長男・次男・長女と一族が勢揃いしてイタリア料理を食し、とても楽しい時間でした。来年もやろうかな、などと思っていました。父は今年12月24日の誕生日で88歳、米寿の予定で、そのお祝いもしようかな、などと思っていました。

87歳とは思えない、健康を絵に描いたような男で、90歳まで楽々行くのではないかと思っていました。

歌うことが好きで、毎日アレクサに演歌をかけさせて、詩を手書きで紙に書いて、新しい歌を覚えては歌っていました。耳がよかったらしく、なかなかの歌いぶりでした。

釣りが好きで、6年前にALSで寝たきりになっていた妻(私の母)の介護をしているときは、「釣りに行きたいなあ」とこぼしていました。

母が亡くなったときは声を出して泣いていました。あんなに泣いている父を一度も見たことがありませんでした。しばらく泣いていました。しかし喪があけると再びいつもの朗らかな父に戻っていました。

いつもサービス精神にあふれた、明るい父でした。私が子供の頃は毎日笑いの絶えない家でした。いつも冗談を言って、駄洒落を言って、ひとを笑わせていました。

私が子供の頃は、怒ると怖い父親でした。すぐにゲンコツが飛んできました。小さい子供の自分は、どうしていつも笑顔の父親が突然鬼のような顔をしてこっちの頭を殴るのか、理解できませんでした。

家は着物屋でした。私は40歳近くになってから日常で着物を着るようになりました。父が着物屋でしたから着物を着るのが簡単でした。

もう父はいなくなってしまいました。2022年7月15日8時37分、義雄は旅立ちました。死因は肺がんでした。肺がんは、実は今年の 2月に見つかっていたらしいのですが、医者からの説明が本人に正確に伝わっておらず、「腫瘍が見つかったというが、またなくなるかもしれない」と思っていたとのことでした。そして6月30日、どうにも体がだるい、熱中症ではないか、と言って本人が自分で救急車を呼び、中野の警察病院に緊急入院しました。画像診断から肺がんとわかり、翌日7月1日には呼吸器担当の岡林医師から末期であること、ステージ4bと言って肝臓などに多発転移していること、肝機能が急降下すれば残り少ない寿命であることなどを私たち家族と本人に説明がありました。

あまり急なことで言葉を失いました。

そうは言っても元気に会話をしているし、意外と医師の見立てよりも長く持つのかもしれない、と思いました。頭では理解しても心が追いつきませんでした。

転院先のホスピスを昨日受診したところでした。越川病院も東京衛生病院もとてもよさそうな施設でした。医師も看護師もとても親切でした。ホスピスに転院したら、コロナ禍の中でも制限付きで面会でき、孫たちも見舞いに行けるだろうと思っていました。

全て無用になりました。

せめてもの救いは、病状が急変して急死したということで本人が苦しむ時間が短かったことです。

死の2日前に見舞いしたとき、「早く行きたい」と言っていました。「どこへ行きたいの?」と聞くと「おかあさんの所」と答えました。「早く向こうに行きたいけどなかなか行けなくてごめんなさい」などと言っていました。そんなに急がずに、もう少しいてくれ、と思いましたが、そうは言えませんでした。本人の願いがようやくかなって、行ってしまいました。

今は自分の中の太い柱が一本なくなってしまったような気持ちです。